言葉の誤用や誤読を指摘したかった時期が私にもありました
大学生時代に塾講師のバイトをしていた。
現代文と歴史、たまに数学と英語を教えていたのだが、個人的には現代文が一番好きだった。
理由は問題文見れば答えが載ってるから。
重松清と松重豊を間違えるくらい人の認識ができない私でも、現代文はできた。
そんな現代文の授業中にことは起きた。
ある問題に「代替」という言葉が出てきた。
「だいたい」と読むことは知っていたのだが、多分今の子供達って「だいがえ」で習うのかな。と思い私は「だいがえ」と呼んだ。
その時だった。
クラスで2番目くらいに頭のいい前田くんが「先生、これ、だいたいです」と言ってきたのだ。
(てやんでいっ!そんな読みわかっとるわべらぼうめい。と言うか今では辞書に「だいがえ」と載ってるくらいには誤読が広まって正しい読みみたいな雰囲気になっとんじゃべらんめい!だいたいそんな現代文における0.01%くらいのファクターに対し目くじらたてて指摘してくるとはいい度胸だな!お?前田!すっとんきょうがッッッッッツ)
という話を、「代替案」という文字を見て思い出した。
汎用的とか役不足とか確信犯とかもみるたびに思う。
そういったものを槍玉にあげるのはナンセンス。もう時流に逆らうのは無駄。
かく言う私もこういった雑学のラインに届くかどうかといった知識が大好きで、教科書よりも資料集を読み、論文よりもイグノーベル賞の結果を読み、ウィキペディアよりも2chの雑学スレを愛読してきた。
雪舟が子供の頃に足の指でネズミの絵を書いた話とか資料集でしか見ませんよね。あの話好き。
そしてそんな学生だったため、微妙なラインの知識を間違えている人をみると指摘したい心がDANDAN惹かれてくだったのですが、基本的に寛容な私は「まあそういう間違いもあるよね」とか「雰囲気で言いたいことは伝わるからOK」とか、「私みたいに今こういう使い方が主流だからそう使ったんだな」、と思って流している。
それが続きついに、逆に指摘する奴が嫌いなまでになってしまった。
寛容と指摘のベクトルが逆になったのだ。
特に許せないのが「頭痛が痛い」に対するツッコミ。
そもそも頭痛は症状で名詞であり、痛いは形容(多分)なので、響きはすこしおかしいかもしれないが意味としてはそこまで間違っていない。
なのに突っ込んでくる。
そして何より気がかりなのは、まずは心配だろうというところである。
では仮に、「馬から落馬した」と言ってきた人がいる。
ギプスをつけてきた同僚が「いやー、馬から落馬しちゃって」
それに対するコメントが「落馬と馬、意味被ってるよ。それ誤用」と言うのだろうか。
何を考えてるのだろうか。そのシチュエーションでそこまで上から指摘して優位を取りたいのだろうか。
人として、誤用よりまず心配をすべき。話はそれからだ。
自身が健康な時点で既に優位は取れているのだ、これ以上とる必要は全くない。死体蹴り。
もしどうしても指摘をしたかったらまずは心配をしてくれ。
「まじ、大丈夫?大変だったね〜。大変ついでに申し訳ないんだけど、それ、誤用。馬と落馬意味かぶってる。本来は、落馬しちゃって、でOK」
心配したけど指摘が嫌味っぽすぎる。最悪だこいつ。
指摘して物事が良い方向に向かうことはおそらく、ない。
何かを指摘するときに角が立たない言い方は非常に難しいので、もう指摘なんかしないほうがいい。
教師・上司・何かしらの先生意外指摘はしない!これ法律でどうにかなりませんかね。
馬から落馬して頭痛が痛い人には心配しかしてはいけない。って法律どうにかできませんかね。
最後に、指摘されたときの返しとして個人的に一番好きなものを紹介
「でも黒髭危機一髪もさ、最初はおっさんを飛ばした人が勝ちだったんだよ。今は飛ばした人が負けだけど。ルールや捉え方が時代の移り変わりによって変わっていったりするのを、こうやって味わえると、面白いよね〜」
です。
最高にクールで柔らかい。こういうこと言える人のあだ名をもれなくにゅうめんにしよう。Mr.にゅうめん。
ということで、誤用を槍玉にあげる人は、確信犯。